平和の取り組み
ピースアクション in ナガサキ 行動報告
2006年長崎研修感想
津センター 野田 智也


テレビや教科書でしか見たことのない、世界でたった2箇所の「原爆の落ちた町」に行くことになり、正直に言うと僕の心は複雑でした。戦争は僕の生まれるずっと前のことだし、原爆や長崎について全然知識がなかったからです。そんな僕でも実際に原爆が落ちた場所や、資料館などでは見るものすべてが衝撃的で心に強く打たれるものばかりでした。
戦後61年経つ今でも、資料館にある服や石、熱線で溶け固まった瓶、手と骨とガラスがくっついたもの、写真からその瞬間がいかにすごかったかを生々しく感じました。爆心地の下は、割れた瓦や陶器の上に土、その上からコンクリートとなっていて、それを見るとどれだけすごい爆風が起こったのがわかりました。
今回僕は、平和について考えるいい機会をもらうことができ、本当に良かったと思っています。これからもずっと平和な世の中であるために僕たち若者がもっと勉強し、歴史を風化させてしまわないように努めるべきだと強く思いました。
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昨年の広島に引き続き、今年は長崎へ
古野紀子・森下淑子
1日目 午前 フィールドワーク 平和の街歩き「長崎の歴史を訪ねて」
今年の4月1日から長崎市内で始まった日本で初めての街歩き博覧会「長崎さるく博」に参加した。長崎を熟知した“長崎さるくガイドさん”の案内で、日本二十六聖人殉教地・本蓮寺・福済寺・聖福時・立山防空壕跡を見学した。
長崎駅をスタートして、すぐ目に入ったのが坂と階段。はるか左の上方に見える二十六聖人レリーフ像が今から行くところだと聞き、「え〜っ!あそこまで登るの?」さすが、“坂の街長崎”と思いながら、ガイドさんの後に続いて日陰を択びながら黙々と歩いた。
二十六聖人レリーフ像 秀吉のバテレン追放令の犠牲となったキリシタンたち。ガイドさんの説明を聴きながら、思いは戦国時代へ。 |
福済寺 原爆で全焼するまで国宝に指定されていた。「非核非戦」の碑の下に無数の被爆遺骨が納められているそうだ。 |
長崎県防空本部跡。太平洋戦争中、県の防空施策の中心的役割を担ったところ。空襲警報が発令されると、県知事ら要員が集まり、警備や救援等応急対応の指揮、連絡手配に当たっていた場所で、壕内には知事室や警察部長室・防空監視隊本部などが配置されていた。「8月9日、知事室で広島の話を始めた時、電灯が消え、外に出たら浦上方面一面が真黒な煙に包まれていた。」と当時の知事が証言している。今までに見た一般の防空壕とは違い、地下の要塞のようだった。 |
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1日目 午後 「虹のひろば」
被爆の証言 谷口稜曄さん
郵便配達員だった谷口さんは、仕事中に爆心地から2km離れた路上で被爆。背中全体に重い火傷を負い瀕死の状態になりながらも奇跡的に回復し、復職した。今もなお、心身の傷の痛みに耐えながら、核兵器廃絶の運動を推し進めたり被爆体験の語り部として活躍してみえる。
ピースアクション活動報告
長崎ララコープの取り組み |
合唱組曲「ぞうれっ車がやってきた」・戦争体験を聞く会・キルト展示会・朗読劇・碑めぐりetc. |
コープ鹿児島の取り組み |
戦争体験文集作り・憲法をお国言葉で・巨大折鶴作りetc. |
合唱組曲「平和の旅へ」
長崎の被爆者渡辺千恵子さんが、被爆による苦難を乗り越え、車椅子で核廃絶を訴える「平和の旅」に出かけるまでの半生を、8曲の合唱と語りで綴った構成組曲。被爆した娘を身を粉にして看病する母と被爆により心身ともに押しつぶされてしまいそうな娘。二人の心の葛藤が響いてくるような曲だった。
平和の灯
夜、平和公園へ行くと、市民による手作りキャンドル約6000個に火が灯されコンサートが開かれていた。
2日目 長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典
伊藤一長長崎市長の「長崎平和宣言」に続き、被爆者代表の中村キクヨさんの「平和への誓い」があった。その中の一節。「つい、3年前、55歳を迎えた被爆二世の次男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から、『次男の広さんの白血病は、母体からもらったものです。』といわれたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでいます。」母としてこんな辛いことはない。わが身に置き換えた時、自分はこの苦しみに耐えることができるだろうかと胸が詰まった。
原爆資料館
被爆前の長崎の様子・11時02分で止まった時計・ぐにゃりと折れ曲がった工場の鉄骨・ガラスが突き刺さった作業着・ケロイドの模型・被爆者の証言ビデオ・長崎型原爆の模型・・・一つ一つに釘付けになりながら見学した。
「ファットマン」と呼ばれる長崎型原爆の模型を見た時、その中心部を見て驚いた。ほんのドッジボールほどの大きさなのである。たったこれだけのものが一瞬にして7万人余りの人の命を奪ったのか。核兵器の恐ろしさを再認識した。
平和の母子像 |
「1945.8.9 11:02」と刻まれた像 |
原爆落下中心地 |
放射線影響研究所
8・9日に未公開写真の特別展があった。終了時刻を少し過ぎていたにも拘らず、片付け始めていたパネル写真を見せてくださった。
冊子を見ると、「1975年に『平和目的の下に、放射線の人に及ぼす医学的影響およびこれによる疾病を調査研究し、被爆者の健康保持および福祉に貢献するとともに、人類の保健の向上に寄与すること』を目的として日米両国政府の合意により発足した研究所で、長崎と広島に作られた。放射線研究所の前身は原爆傷害調査委員会(ABCC)で、終戦直後に米国政府の資金により原爆放射線の健康影響を長期的に調べるために設立された。」とある。
特別展の未公開写真見たさに行った研究所だったが、現在も放射線の影響で苦しんでいる人たちの調査治療にあたっている研究所の存在を知り、原爆に対する考えがまた少し深まったように思う。
最後に・・・
昨年の広島に続き、長崎へ参加させていただいた。長崎原爆の悲惨さを見聞きし、二度とあってはならないとあらためて思った。
被害の大きさに比べて原子爆弾の小ささに驚き、現在地球上にある核兵器の数(約3万発)に身震いした。しかも当時の爆弾の数百倍の威力を持つものも…核兵器保有国・開発国に対し怒りがこみ上げてきた。
子供の頃に読んだ本で、宇宙人が地球を見て言った言葉を思い出した。
「地球人は宇宙侵略を企んでいる。そうでなければ、あれだけの核爆弾を持っているわけがない!」というものだ。
原爆という悲惨な事実を風化させてはならないと思いながら長崎市内を歩いていたら、あるポスターが目に留まった。
『平和への 願いだけでは かわらない』
思わず立ち止まってしまった。思っているだけ・願っているだけではなく、小さいことでも構わないから自分にできることをしようよ!と語りかけられた気がした。
平和への願い・祈りに包まれ、平和への行動に溢れた広島と長崎で見聞きし感じたことを、私たちなりに伝えていきたいと思う。












立山防空壕跡

