「牛乳パックでつくる第五福竜丸・伊勢と第五福竜丸のお話」を開催しました。
3月31日および4月1日の両日、伊勢市大湊のゴーリキマリンビレッジにて、親子で!みんなで!たのしく平和をつくる!と題し「牛乳パックでつくる第五福竜丸・伊勢と第五福竜丸のお話」を開催し、コープみえの組合員親子や地元の子どもたちなど78名(3月31日:46名、4月1日:32名)が参加しました。
第五福竜丸は1954年3月1日未明にマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄(はえなわ)漁船です。水爆実験による被ばく後は、練習船に改造されて東京水産大学(現在の東京海洋大学)で使われていましたが、1967年に廃船になりました。
しかし、練習船に改造する作業が伊勢市大湊の強力造船所(現在の株式会社ゴーリキ)で行われていたことはあまり知られていません。今回の催しは第五福竜丸の改造が行われた場所で行ないました。
子どもたちはせいきょう牛乳の紙パックで第五福竜丸づくりに挑戦し、最後にできあがった第五福竜丸の進水式を行いました。
子どもたちからは「つくるのは難しかったけれど、船が浮かんでうれしかった!」「みんなで楽しくつくれた!」「まっすぐ進まなかったので、もう一回つくってみたいです!」という声が聞かれました。
みんなでたのしくつくったよ!
大人たちは子どもたちの第五福竜丸づくりと並行して、第五福竜丸が辿った運命、水爆実験の「死の灰」を浴びた乗組員と船とビキニ環礁に住んでいた人々の被害の実相などをはじめ、いまも続く核の脅威や被害をこの事件を通じてどう捉えていくのか、東京都立第五福竜丸展示館からお招きした安田和也主任学芸員のお話に聞き入っていました。
東京都立第五福竜丸展示館 安田和也主任学芸員
また、改造当時の設計を担当された木村九一(くいち)さん、工場長として改造の陣頭に立った吉岡雄毅(ゆうき)さんからお話を伺い、「放射能を浴びた船の修理をしている」と言われて銭湯に入るのを断られたこと、船を生き返らそうと必死になって作業にあたったことなどをお聞きしました。
改造の設計を担当された木村九一(くいち)さん
工場長として改造の陣頭に立った吉岡雄毅(ゆうき)さん
参加者全員で第五福竜丸が原水爆のない未来へ航海を続けていることを学び、平和をつくる一日を過ごしました。
第五福竜丸とは:
第五福竜丸は 1954年3月1日未明、赤道の北に位置するマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の木造の遠洋マグロはえ縄漁船です。爆心地より160km東方の海上で操業中、実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に降りそそぎ、乗組員23人は全員被ばくしました。無線長だった久保山愛吉さんが半年後に亡くなり、急性障害を乗り切った乗組員も苦難を強いられました。ほかの漁船が水揚げしたマグロの汚染も判明し、国民の不安は頂点に達し原水爆禁止運動につながっていきました
その後、第五福竜丸は伊勢市大湊の強力造船所での改造・補修され、その後の廃船を経て、終戦当時に建造された木造船の中で唯一現存する木造船として、現在は東京都立第五福竜丸展示館で展示・公開されています。
東京都立第五福竜丸展示館で展示・公開されている『第五福竜丸』